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仁徳帝と王仁博士

未消化なままもやもやとしていた疑問が氷解する時というのは、なんともいえない爽快感があります。(といっても自分の中の答えなので、それが正しいか間違っているのかとは別問題だったりするんですけどね。)

久々にフリーで書く記事はそういう感じのものを扱ってみたいかなと。

 

近頃ずっと頭に残っているのが仁徳天皇の事でして、この難波の地と切っても切れぬ関係の天皇、そして其れを御祭りする社の群、この辺りのことをふとした瞬間に考えたりしています。

過去記事の仁徳天皇のお社でいくつかマッピングしていましたが、これに炭屋新高津宮を合祀した大正区の八阪神社を参拝し、市内の主だった仁徳社を一周りしたような形になり、仁徳社群をまとめたような記事を書きたいな等と考えてたりしてるんですね。

まあ今回はその様な感じで調べていた中で出てきたちょっとした小ネタを。

 

御朱印帳の件でお世話になっている東高津宮さん。

高津宮の旧地にあった事もあり、元高津宮といわれている由緒のあるお社ですが、私がお参りした仁徳社の中では珍しくも王仁博士をお祭りしています。

 

王仁博士とは応神帝の命で百済王より日本に論語と千字文を携えて赴いた学者で、元々は中国の楽浪郡(朝鮮半島北半分)に居住していたものの高句麗の楽浪侵攻により故地を奪われ百済に逃げ延びた漢人グループの一人であるとされております。

応神帝とは仁徳帝の父帝であると共に三韓征伐で新羅百済高句麗の三韓を降した神功皇后の御子であり、帝位に就いている時期には百済には宗主国として絶大な影響力があり、百済の中でも一流の学者としてこの王仁博士が派遣されてきたようです。

 

日本に渡来した王仁博士はその後応神帝の皇子の一人菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師として、また養育を行う臣として仕えます。

つまり、仁徳天皇にとっては皇位継承上並び立つ存在のお守り役だったわけです。

この皇子、応神帝よりも寵愛され皇太子として立てられますが、異母兄である後の仁徳天皇こそふさわしいとし数年の間皇位の譲り合いをした後、自ら命を絶ち皇位を仁徳帝に譲ります。

 

仁徳帝はこのような形で即位に到るのですが、菟道稚郎子の旧臣である王仁博士はその際に一首の歌を仁徳帝に捧げその治世の幸いならん事を祈ります。

 

難波津に  咲くやこの花  冬ごもり  今は春べと  咲くやこの花

 

古今集に収載されている和歌で、百人一首には収載されていませんが競技かるたでの始めの歌として読まれるほどの名歌で、大阪市の浪速区や此花区の区名もこれにちなんでいるそうです。

後、王仁博士は仁徳帝にも仕え文氏、武生氏の祖になったようですが、菟道稚郎子の事やこの歌を見るに仁徳帝とは良好な関係を築けたのではないでしょうか。

 

それ以降の経緯は想像で埋めるよりほかありませんが、仁徳天皇をお祭りする古社にこの王仁博士が末社としてお祭りされている事の理由の一部が氷解した気がします。

 

自己完結してる気もしますが、今宵はこんな所で。

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まとめtyaiました【仁徳帝と王仁博士】

未消化なままもやもやとしていた疑問が氷解する時というのは、なんともいえない爽快感があります。(といっても自分の中の答えなので、それが正しいか間違っているのかとは別問題だ...

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神社の御朱印集めのつもりが、いつの間にか徒歩での数珠繋ぎ巡拝の様相に。
最近旧道の曲がりくねった道を見るとどうもわくわくしてきます。

摂津国の神社中心の御朱印五目収集参拝中。

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